「カティ・サーク」というと,日本では「スコッチ・ウィスキーか」程度にしか思いつかないが,
英語ではかなり変な名前である.スコットランドの言葉で「短いシュミーズ」という下着を意味しているのだから.
実際カティ・サークのフィギュアヘッドは胸もあらわなシュミーズ姿の女性の像が舳先にある.
この奇妙な名前は,詩から引用されたものだ.
酔っ払い農夫のタムは,ご機嫌になっての帰宅途中,悪魔やら妖精やらが踊っているところに出くわした.
とっさに隠れて覗き見ると,そのなかにカティサークを身にまとった
扇情的な踊りを踊る妖精ナニーの姿が目についた.
その踊りが,あまりにいいもんだから,農夫タムはつい叫んでしまった.
「いいぞ,カティサーク!」
たちまち,陽気な舞台は一転して,悪魔たちはタムのほうに向かってくる.
あわてて愛馬に一鞭くれて逃げ出したタムの馬の尻尾を妖精ナニーが
むんずとひっつかんで….......
こんな詩から名前をつけたというのだが,.....
英国のロンドン郊外にグリニッジという街に小さな帆船が保存されている.
帆船としては建造技術がおそらく頂点に達した19世紀に建造された茶運び帆船(ティー・クリッパ)である.
英国ではコーヒーよりも紅茶を好むようだが,19世紀ごろには紅茶が流行した.
どの程度好きだったかというと,植民地米国へ出掛けた開拓移民達にとっては,
紅茶に税金が掛けられて値段が高くなったために本国から独立する戦争をはじめたくらいだからだ.
英国にしても,紅茶のために中国に麻薬を堂々と密輸し,その権益を守るために戦争を始めたほどに紅茶が好きだったのだろう.
ワインでもお米でも,取れたての新鮮なものには,それなりに付加価値がつく世の中である.
みんな欲しがるのものは高く売れるのだが,紅茶は遠い中国から英国まで運んでこなければならない.
しかも新鮮なものを欲しがるから,最も早く英国に到着した新茶は莫大な利益を船主にもたらしたのだろう.
こうして,中国はニンポーから英国のロンドンまで,速く紅茶を運搬する帆船の競争が始まった.
これが19世紀のティー・クリッパ・レース(茶運び帆船競争)である.
規模は小さいが江戸時代の日本でも似たようなことをやっていたようだ.
それは日本酒なのだが,灘など西国の新酒を一番早く江戸に届けるのはどの船かという賭博が行なわれた.
さて,19世紀の中ごろになると,ようやく汽船が実用期に入り普及がはじまる時期である.
しかし,蒸気機関や推進機構の信頼性は,まだ十分ではなく,燃料にする石炭も容易に入手できるものではない.
さらにかなりの貯蔵スペースを必要とし,まだ大洋を航海するほどの信頼性は得られていない.
日本に米国からペリー提督が東周りの蒸気船でやってきたが,帆船と蒸気船のハイブリッドだったのだ.
しかし,ペリー提督は東洋の開発途上国を驚かせるために相当に無理をしてやってきたようなのだ.....
石炭で蒸気機関を動かして航海したのは,ほんのわずかな距離でしかない.
しかも故障を修理しながらようやく航海してきたらしく,なんとか本番の東京湾では,予定通り煙をあげて,幕府のお役人さまの度肝を抜いたようではあるのだが......
よたよた走る外輪蒸気船を尻目に,すべての帆を展開し風を受けて膨らまし,高速で帆走する帆船は,なおしばらく海の主役だった時期である.
速い船を好む常連客といえば,昔から海賊や密輸商人に相場が決まっているが,クリッパという快速帆船の歴史は,こんな連中の溜まり場だったようで,米国から始まっている.
独立戦争後,世界の海に出て行った米国の帆船は,ドル箱航路ともいうべき紅茶貿易をたちまち支配してしまった.
英国人にも宗主国の意地がある.快速のクリッパを建造して中国航路へ投入し,米国帆船との間で熾烈な競争が始まった.
しかし米国の帆船は,国内の南北戦争後にはほとんど姿を消してしまう.
米本国のゴールド・ラッシュ輸送,つまり東海岸から南米のホーン岬をまわってカリフォルニア州に達する航路のほうが人気があったのだ.それに国内戦争で茶運びどころではなくなったのだ.まだ鉄道は米大陸の西海岸と東海岸を結び大陸横断鉄道を敷設作業中だったのだから.....
しかしながら米国が抜けてもティー・クリッパ・レースは激しさを増していく.
まず1856年にロイド協会が,「新茶を最初にロンドンに運び込んだティー・クリッパに対して,1トンあたり1ポンドの賞金を出す」と宣言したのだ.
この賞金を最初に獲得したのは,英国船「ロード・オブ・ザ・アイル」.
賭け事の好きな英国人は,すぐに新しいギャンブルを始めた.
これで貿易とはまったく関係ない一般の市民までが,新聞の出船・入り船欄に目を通す状況がロンドン市街のカフェで目にするようになった.
そんな流行のうちに,1866年(なんと明治マイナス2年!!)には史上空前の大接戦が海上で展開された.
追いつ追われつの帆走レースを大西洋で繰り広げたあげく,ドーバ海峡を目前にして,「エアリアル」と「ティーピング」の2隻は ほぼ同時にタグボードの曳索をとった.
「エアリアル」はロンドン・ドックに9時に入港.
「ティーピング」は,少し離れた遠いドックだったので10時に入港した.
しかし,潮が退くのは「ティーピング」が入ったドックのほうが早かったから,最初に荷を下ろしたのは「ティーピング」ということになった.
ルール上は「ティーピング」の一着だが,もっともこれには「ティーピング」の乗員も釈然としなかったようで,結局は同着ということで賞金は折半になった.
この年の先着5隻の記録はつぎのとおり.
「エアリアル」 :福州から99日 9月6日午前8時着
「ティーピング」 :福州から99日 同日午前8時10分
「セリカ」 :福州から99日 同日正午
「フェアリー・クロス」 :福州から101日目 9月7日夜
「タイシン」 :福州から100日目 9月8日朝
インド洋から喜望峰をまわって大西洋を渡ってきた帆船によるすごい接戦が行なわれたのだ.
こんなに盛り上がったティー・クリッパ・レースだが,スエズ運河が開通するとともに下火になっていく.
というのは,この運河は帆船が通ることは出来なかったからである.
それにインドでも茶の栽培が軌道に乗り始めたから,わざわざ中国から運んでくる必要はなくなっていた.
ティー・クリッパ「カティ・サーク」が就航したのは,ティー・クリッパ・レース黄昏の時代になっていた.
この船は,悲惨な運命のもとに生まれた.
まず,「カティ・サーク」は,難産の結果ようやく誕生した帆船だった.
それは,不運の始まりで,建造している造船所が倒産してしまったのだ.
しかも最初の帆走では,そこそこ航海したものの,すでに汽船が先に茶を届けていた.
さらに1872年(明治4年)には,ティー・クリッパ・レースで「サーモピレー」とデッドヒートを繰り広げたのだが,舵が故障して勝利を掴みそこねてしまったのだ.
時代は代わり汽船が主役になってしまったのだから,もはや帆船に関心が薄くなってしまった.
ティー・クリッパ・レースの賞金もいつの間にか廃止されてしまい,運賃だって微々たるものになってしまった.
こうしてカティ・サークの次の職場はオーストラリア航路となった.
かつてのティー・クリッパ・レースのような華々しさはないが,カティ・サークは有能な船長を得て,その実力をウール・クリッパとして十分に発揮した.
ティー・クリッパ・レース以来のライバル「サーモピレー」にも勝る快速ぶりを示した.
しかし,帆船は大洋航路から次第に消えて行く.
つまり船主がいよいよ汽船に切り替えるチャンスをうかがっている状況となった.
やがてポルトガルの船主に売却されたカティサークは,名前をフェレイラと改められた.
老朽貨物船として彼女は塗装も改められ,次第に薄汚れてしまう.
石炭を積んでいるのだから当然といえば当然だが,マストまで切って短くし,帆装もシップからバーケンティンに換えてしまい,もはや誰もこの船がかって華やかティー・クリッパの成れの果てだとは気がつかない.
ようやくひとりの英国船員が,この船に気付いたのは1918年だった.
彼はティー・クリッパらしき船体に気付き,塗りたくられたペイントをはがしてみるとカティサークの文字が現れたのだ.
このことは口づてに英国に伝わり,やがて彼らの間でカティ・サークを英国に買い戻そうという運動がもりあがった.
こうしてカティサーク,改めフェレイラは,1922年に英国人の手に買い戻され,27年ぶりに英国商船旗を掲げた.
やがて彼女は引退し,1938年にテームズ航海学校に預けられた.
そして,ティー・クリッパー時代の姿に復元され,グリニッチの乾ドックに保存されている.
帆船模型を趣味としている人には,蛇足のようなものだが.......