では反対にボンデージの主導権をもってレベルを深めるマスターとしての視点から見ると,どうなるのかということも重要なことである.
素材として責められる側の立場ばかりが重要視されているというのも,マスターとしては一概には納得できないということもあるだろうが,それは妥当な考え方であろう.受け身となる責められる側にとっての満足度だけが求めているのではないことは当然だが,ボンデージに関わりあう両者の合意点を探し出し,その合意点をもとに互いに快感を得るためにレベルを高めて行くということによって,マスターとパートナーの相対関係が保たれるのだと考えるべきだろう.
ボンデージ行為というのは,マスターがパートナーを責めるという関係は変わらない.しかし, 第3者から見ると理不尽に見える関係というのもこの世には存在するのだ.とどのつまりは2人だけの快楽を求める世界であるから(露出行為や第3者を含めた多人数行為は別の機会に考えてよう),2人だけに共有可能な表現方法があってもいいはずである.マスターにとって,パートナーは愛しい存在であろう.愛する方法,表現がそれぞれに異なっているということでる.それを自分のやり方と違うからといって,他人が口出しできるものではない.
ボンデージの基本となるのはマスターとして女性に快感をもたらす嗜好を持ったオスと,素材としての女体を提供し苦痛を快感に転化する嗜好を持ったメスとの人間関係である.これに恋愛感情を追加して絡める場合もあるだろう. また単純に互いの嗜好を満足させるための関係でしかない場合も考えられる.
とはいっても,マスターが自分の好みで勝手に何でも行える状態にしておき,それが自分の目指すボンデージ行為と主張するのも違うものであろう.
はじめは通常の人間関係だったのが,いつしかボンデージ行為によって経験を共有することによって主従関係になったり,単なる合体Sexのための興奮素材に成り下がてしまうこともあるだろう.また昼間は亭主関白の夫婦が,夜になると女王様と下僕に関係を入れ替えたり,夫婦であってもなんの面白みのない関係でしかなかったのに,別のボンデージ・パートナーとの間においては,人格や性格が変わってしまうこともあるだろう.それこそ千差万別の日常と非日常の関係性が存在するのだろう.女の肉体をひもで縛って拘束するということと,女の心を縛るということが同じ効果を発揮する場合と,まったく別な行為になってしまう場合があるということだ.

