パートナーの女体を縄で縛るというと,実際に肉体に縄を掛けて拘束するのであるが,精神的な面でも女の心を縛りつけてしまうということもあるのだ.
これは非常に微妙な表現になるようだが,一時的にもパートナーの精神を掴んだ状態というのは,その心を縛りつけて支配している状態といってもいいのであろう.心を縛り付けるというよりも縛られているという受動的な表現のほうが実態に見合っているのかもしれない.
ボンデージ行為においては,「主従関係」という表現が出てくることもあるが,相互の合意によって行う場合だから,あまり好ましい表現ではないのだが,ほかに適切な言い様もないから,通俗小説に出てくるような表現で我慢せざるをえない.この場合には主がマスター, 従はパートナーということになるのだろうが, 実際にはどんなものなのかとは思うのだが......しかし時には,パートナーが主導権を持った状態での関係だってありえるのだから.つまり実生活と二人だけの時間では関係が継続することも,逆転することも実際に起こりえるということである.そんなことはどちらでもいいと考えるのも面倒だから成り行き任せでいいだろう.
その結果として何があるのかということは重要なことだが,そこに辿りつくまでのプロセスも重要な手続きである.だから原因というか,発端となるものはどうでもいいのかもしれない.
本来は快楽系のマスターも苦痛系のパートナーも,通常はどちらも一人の人間の中に存在する好みとして存在する要素である.ただ,これらの関係は一人では成立することはなく, やはり相手に巡り会ってのみ成立するものであるから,本来の快楽系や苦痛系の考え方に相手との関係ということが付加されるのである.これが話を判りにくくしている根本ではないかと思うのだが,単純に快楽系はいじめて楽しむ性質,苦痛系はいじめられることによって快楽に転化する性質と置き換えてしまうのはあまりに単純化し過ぎだろうか.たとえそうであったとしてもその欲望や,要望を満たすためにはパートナーとして受け入れてくれる相手が絶対に必要である.
苦痛系同士であっても,快楽系同士でも関係を成立させることは可能でも,上手に行動を合わせることはできない場合もあるようだ.それよりも単独では単なる妄想でしかないということである.妄想としての個人の性癖を具体化するためには,受け入れる相手が必要だということである.

