寒くなったので長袖のYシャツを着ている(英国紳士とは違ってノーパンではないが)と,これでしゃがんでも背中が出ない状態になる.冬でも丈の短いTシャツにGパンだとしゃがむと背中が出て寒い.不思議なことにしゃがんで背中を露出しても平気な女性がかなり多い.夏にビキニの水着で太陽エネルギーを蓄積していると,冬になっても耐えられるのだろうか?
体を縄やひもによって拘束されて縛られると快感が得られるというパートナーの場合には,そのプロセスを2種類に分類できるようだ.体を動かすことができない状態になるとその拘束による束縛感によって快感を感じるという場合と,納得して受け入れた苦痛を甘受しなければならないという状況によって,それが苦痛から快感に転化するという場合である.もちろん苦痛だけが純粋に快感に繋がる場合もあるのだけれども.
どちらの場合も突き詰めて快感に向かってエスカレートさせていくと,最後は死と隣り合わせの状況に到ってしまう危険が潜んでいるのである.つまりはその頂点に近い手前のどこかで行為の限界と快感の妥協点を見つけ出さなければならないということである.その限界点に到達したときが最高の快楽ということになるのだろう.ボンデージにおいて女体を縄による縛りを始めた段階からそこを目指すこともできるだろう.初めからテンションを高くしておき,一気にその状態から始めることもできるのだから.ただし危険性もかなり高いものとなってしまうが....
そのためにはパートナーが苦痛系であれば,その快感の得られる移行点をマスターが快楽系として十分に認識していなければならない.快楽系の立場から考えれば,パートナーの状況を考慮する必要はないのだが, 快楽系と苦痛系性向の二人が,または複数でボンデージ行為を行う状況であれば,ほんの少しでもいいからパートナーの状態や反応も考えて作業や刺激を加えるべきである.
ボンデージを行う場合には,快楽系と苦痛系のどちらの快楽を優先すべきか,さらには両者の合意点を最優先にするのかということで意見が分かれるものである.
一般的には両者の合意点を基本にして,より快楽を志向するために妥協点のバランスを変更して行く必要があると考えている.
まだ経験の少ない若い時代には,かなり無茶な作業や刺激を行ったが,現在では本能のままに行動するようなことはほとんどなくなった.よほどのパートナーに恵り会えれば別なのであろうが, オスとして本性を丸出しにしてしまうと相手にダメージを後に残すほどの刺激を与えてしまうこともあるのだ.快楽系は最後まで自分の快楽を追求してしまうものであるから,苦痛系の状態を考えて最後まで刺激しているかというと,結局のところは自分の快楽だけが重要なものとなってしまうのだ.その快楽系の性向と同じ価値を共有できるマージンを持つ,苦痛系が本来のボンデージ行為を快感に転化して受け入れることができるのだろう.
実際の行為においては,どちらかが無理をして価値観を一致させる必要はないのである.しかしどう考えても快楽系と苦痛系の性向が異なるのだから,同じ価値観を共有できるパートナーに巡り会える確率は零に近いのが現実なのであろう.だから妥協点をわかり合える相手という存在であってもなかなか遭遇することはないのである.Webの世界が便利になって, 以前よりはパートナーを探す機会は増えているのだが,パートナーに巡り会えるのは数ではなく, 命中する確率に運命的な要素が影響しているかどうかということになるのだろう.
快楽系の性向を持つマスターだからといって,必ずしも苦痛系の性癖を持った相手が最良のパートナーとは限らないということもあるのだから不思議なものといえよう.快楽系の性癖を表に出さなくても自分の中で納得できる相手に会うことができればそれで問題はないということである.これは苦痛系の性向のマスターがベストパートナーを探し出すよりもはるかに難しいことになるのだろう.

