楽しい出来事を思い出として記録するというのは人によって,さまざまな感情を伴ってその余韻が残っているのだろう.
幸福という生活の評価を与えて日常を過ごしているのであれば,ささやかな行為なども「幸せ」として認識できる人なのであろう.つまり日ごろの生活の些細な事実に楽しいという感情が得られるのは,本人が精神的な領域においても些細な行為に対して反応できるゆとりがある証拠といえるのだろう.これが緊張や忙しさなどによって切羽詰った状態になっていると,人はより大きな事件,感動的な舞台演技などに対してしか感動することができないものとなってしまう.そんな感動の振幅の揺れを繰り返しているうちに,いつか重要な事件に遭遇しても,その事実に気づくことなく見逃してしまうようになるのだろう.
まだ若い時代には,幸せには感じられなかったものが,少しずつ年を重ねることによって,いつしか幸せということがわかるような恵まれた生活をしている場合もあるだろう.人なみには遊んでさまざまな経験を蓄積してきても,時には馬鹿な行為にも手を染めたことが何度かあった.いわば脇道で悪さをしてきたのだが,そのときには楽しい経験なのだが,まだことの本体のことなどには関心が向いていくことはなかったといえるだろう.いまそれらを振り返ってみると,そんな試行ができたことは非常に幸せなことだったと思うことがある.当時はそんなことは感じていなかったのだから,脇道における楽しさなんていうのは,それを継続させようとする努力さえもなかった.ただ1回限り冒険ということで試行するだけで終わってしまったのである.どうせすぐにまた次の機会がやってくると信じており,若さという愚かさで気軽に過ごしてきたのである.
人との巡り会いについても同じことだったように思える.縁をあまり大切とは思わなかったから,あとから後悔や名残を感じることもある.もう50代の半ばを過ぎると,この年代になって知り合う人との関係を重要な出会いとして捉えていても,10代の頃のように感情のままに振る舞うことは出来ない分別が先行してしまうのだ.これまでのしがらみがあったり,金銭が絡んだりなど,素直な感情よりもビジネスを優先した感覚で結論を出してしまうということである.
これまでに自分の感情を縛ってきた自分だけの価値観というものが,いくらかでも柔軟性を持たせることができるのであれば,もっと人生を楽しみ,それが幸せという事実として感じられるように変えることができるのだろうか.

