ただその性格として内部での構成比率は,人によって異なり,嗜虐性の発揮の仕方や,被虐性としてはその刺激に対する感じ方も,それぞれの捉え方も各人,各様というのが現状における分類であって,一般的な定義付けをするのはむずかしいのであろう.
ところで男と女の合体Sexにおける肉体構造から考えると,女の体は「受け身(いわば凹)」的で,男の体は「攻撃あるいは,行動的要素(凸)」を持っているとこれまでは大雑把に考えられてきた.
もっとわかりやすくすると,性的な興奮や,昂まりを覚えない異性に対しては,男性自身は勃起しないという事実がある.雄が勃起するということは,異性をSexにおいて征服したいという欲望が目覚めていることは間違いない.目の前の雌の体を自分が自由(モノ)に蹂躙したい,という欲求が雄の体内に蓄積されて大きくなっているのである.
そのため時には強引にパートナーをホテルへ誘い込み,ベッドの上に押し倒すかどうかは別にして,男がSexの衝動に駆られてその想いを遂げようと,女体を籠絡する手段を講ずるのは日常的な行動である.
つまり多少は強引な行為だが動物としての本能にもとづいたSex行動が行われる.こう考えると,実際に行動する動機としては,男の種族保存という闘争本能から雌を捕獲してSexに到ると考えるのであって,雌に対する想いの強さ(愛情に近い占有欲)が,雄としての行動に拍車を掛けるのであろう.合体Sexの場合にも,男が女の体をま探ぐり,積極的に愛撫して刺激し,男の快感を昂めて往き,同時に女の性感を高めて相互に快感を交換する状況を経てできれば同期して双方ともに快感の頂点に登り詰めて真打ちとなる射精行動がクライマックスとなるのだろう.それが激しく燃え上がるような,強烈なSex行動であれば,女体はそれを受け容れ,歓びや嬉しさを覚え,運がよければマリアさまのように愛し子を授かるかもしれない.
ところが女は,Sexを求められても,合体Sexを要求する男の強引な愛撫作業によってSexの前触れ行為を感じられる場合に,そのパートナーに愛されていることを実感していれば幸福ということになる.合体Sexというのは,厨房の好奇心による体験という時期が過ぎると,人間としてまず種族保存としての義務を果たすことが家族より期待されている.ところが1945年以降の日本国では,風俗としてのSexは話題になっても家族の原点としての合体Sexは何故か語られることがなかった.いわば語られないタブーとして陰に追いやられてきた.Sexというものは,知らぬ間に夫婦間で実施され,時には夫婦関係のない男女で娯楽の一環として行われてきた.合体Sexではその体位や,女体への愛撫や刺激する方法,合体までの手順にではなく,Sexを求める男の中にある熱く激しい愛ということは,建前として語られてきたに過ぎなかった.
もし牝が妊娠するとその女体は,“産みの苦しみ”を味わうことを義務付けられているから,男の体とは異なり,性感センサが多様に存在し,いろいろと感じることができ,快感を多彩に得られるようになっている.それだけに,根底に“愛情”がある合体Sex行為には,答えようとするのが女であり,女体がそういう構造になっているのである.
人間というものは,男女の別なく,欲深い生き物で,自分にだけ,自分にしかさせない,許さない,何かを相手に求めるのも,ある意味では,そうした所有欲から発している.
つまりソフト・ボンデージというのも,“究極の愛情表現”といわれるのも,合体Sexの一環として日常化しているのも,そこにポイントがあるのだ.
ということで縄で女体を縛ることができなくとも,女を責めた経験がなくとも,愛しい女を自分だけの存在にしたいというのが愛情であろう.自分だけにボンデージや合体Sexを許す女体にしたいと,本気で考えるのであれば,それこそが愛するパートナーの女体をボンデージ行為に誘う基本原則であり,入り口にたどり着いたといえよう.
