たとえば女体を拘束して不自由の中から快感を求めるというボンデージ行為もマスターとパートナー相互のあいだに信頼があるから行えるのだろう.それだからこそ,憎しみによる行為である私刑や拷問とは,まったく別なものであって,見かけが似てはいても,パートナーと責める行為者との関係の方向性はほとんど正反対と考えてもいいだろう.
しかし女体を縄で拘束しさらにロープで吊るして責めたり,肌を直接刺激するように鞭で打つなどの行為がある.これらの作業が過酷なほどに肌を責めてはいても,そのような責めを甘受している女には,罪人ではないのだから苦痛だけがあるのではない.単純に痛みに耐えることによって精神的なストレスから解放され,痛さに慣れると時にはそれが快感につながる刺激に転化する場合があるからである.
これらが憎しみによる敵意や殺意,憎悪や嫌悪からの責めであれば,それを甘受するような女の態度や表情は存在しないであろう.懲罰や憎しみによる懲らしめ行為であれば,恐怖心や怯えからくる不安で,女の表情は,頑なに不条理な苦痛に耐えていることがわかるだろうし,まわりの者にもそれが伝わってくるものである.
崇拝者による女体の調教としてのボンデージ行為を甘受しようとする女であれば,いわゆる本物のマゾ女であったとしても,苦痛系が好きな女ではないのである.日常の生活においてはごくごく普通のどこにでもいる女であって,拘束されて責められることを毎日の糧にした職業や,仕事としている女でもない.つまりは普通の大人の女であって,キャリア・ウーマン,店員,看護師,保健師,介護師,教師,ディスク・ジョッキーなどであっても不思議はないのである.
人間という種族には男と女を問わず,人の心の中には本人が好むと好まざるとに関わらず,嗜虐性と被虐性が存在しているのである.単純に「鞭打つのが好き」だとか「打たれるのが快感」などという単純な好みからのボンデージ行為においての嗜虐性,被虐性という単純なものではなく,パートナーを愛しているために「自分だけのものとして,自分の望む傾向に変えたい」という独占欲が関わってくる.あるいは「好きになった人だから,愛する人の役に立ちたい.好みの色に染まりたい」という奉仕や,恭順の気持ちは誰の中にでも在るのがふつうであろう.そのような恋愛感情や気持ちがより深くなってくると,行動や態度,言動の中に,具体的なものとしてボンデージが出てくるのは自然な流れであろう.
単なる友情から愛情へと,気持ちや心情が変化していく課程で,その接し方や,相手への見方も変わってくるのと同じことであろう.
つまり女体へのボンデージという行為は,相互間の愛情の深まりと,昂まりの到達点として,さらに新しい関係への展開を期待しながら始まることによってこそ,男女間で成り立つものであろう.
女の体を縄で縛って拘束し,それを責める行為がボンデージということではなく,そのような行為を甘受できるほどに,女の愛情を獲得した男として得られる地点から,女体へのボンデージがはじまるのだと自覚してソフト・ボンデージに関わってゆくことが出来るのである.
簡単にわかりやすく言えば,普通の恋愛が行える人,男女間で相互に信頼関係を築くことのできる人が,そのパートナーとなる女の体に対してボンデージ行為が可能なのである.
合体Sexのバリエーションとしての緊縛ボンデージと考えると,一応は女体を縄で縛るテクニックを習得する必要はあるのだが,愛する相手をどのようにしたいのかを,自分自身の中で明確にしていき,相手との愛を確認しながら,自分で想像して描いた方向へと,時間,月日をかけて,誘導していくべきであろう.そのプロセスの進行には焦らないことが重要である.そして,その成果を得ることには急がないこと,さらに事態に応じて適宜目標を変更しながら進めてゆくことであろう.それ以上に重要なのは,相手に対する思いやりは惜しまず,溢れるほどに与えることであろう.
